隣三軒の忘れ物
2009/8/29 12:42
「雨降りそうやったから布団と洗濯もん(物)入れといたけん。」
僕の話好きは話好きだった父親譲りかもしれない。
いや、母も叔母も叔父も祖父も祖母も友人も、
ついでに言えば
近所のオバチャンやオッチャンも話しだしたら延々と喋る
人達の中で囲まれて生きていた。
改めて記憶の最古を辿っても、
物心付いた頃から僕の生活環境の全てに、
何時も「会話」が同居していた。
しかし今は当時の生活環境に存在してた人達も、
子供だった僕の周りからは僕が大人になる時間が経過する度、
まるでバトンを渡す様に、決まった順番の様に、
大人になった僕の前から今度は「無言」で去っていく。
そして気付けば、僕はいつしか話好きで延々と喋るオッチャンになって
いた。
三軒隣に聞こえる程に大きな声で。
三軒隣へ気遣いながら。
三軒隣は三軒隣に聞こえる様な大きな声で。
三軒隣へ心遣いながら。
確かに現代社会は地域性や住居環境は大きく異なり、
僕が子供だった40年近く昔の話が
あてはまる生活環境は、無いに等しいかもしれない。
でもね、結局は現代社会も昔の社会が育てた「大人の姿」だと思うんです。
昔のそのままは無理でもね、
三軒隣が三軒隣に「気遣いと心遣いの思い」
だけでも連鎖して行けば、
それがまた「未来が現代」になった時、
未来の昔になる現代は、チョットは「良い大人(時代)」を
育てた昔になるんじゃないかな?
冒頭の返事が環境に関わらず、「ごめんよ!有難う。」と
普通に飛び交う会話として、未来の現代へ。
現代が昔になる時の、「今は子供の未来の大人(現代)」へ。
昔になる現代が忘れてた「三軒隣の忘れ物」を渡してあげたい。
それがまた、時代同士のお喋りになる様に。
鳴門魚類㈱代表 山本章博